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伊勢田哲治 2004年『認識論を社会化する』名古屋大学出版会


 サイエンス・ウォーズに知的興奮を覚えたあなたなら、読んだ方がいいだろう。ただ激ムズ。一応読了したが理解度10%ぐらい。
 「科学知識の社会的構成」と述べられるときの、「社会的」という概念を、科学知識の原因として述べられているのか、科学知識が生成されるプロセスを指し示しているのかに分けたうえで、科学の合理的説明を維持存続させ、非合理的説明を科学から排除させていくという、科学の特異性の探求が、「科学知識の社会学(ssk)」における「より強いプログラム(even stronger program)」として提示される。ここで、前著の『疑似科学と科学の哲学』が「sskのより強いプログラム」が、疑似科学に適用された研究であったことが理解される。そして、アメリカ社会学における理論的多様化を事例に、著者自身が「科学知識の社会学(ssk)」の「より強いプログラム(even stronger program)」による分析を行っている…のかな、と思ったら、なんか違う。たぶん、難しすぎて、私は「より強いプログラム(even stronger program)」を誤読していたみたい。結論としては社会学における理論的多様化は、それぞれの理論が採用するにふさわしい研究方法を選択することで「信頼性」を高める限りにおいて評価される。他方で、異なる社会学理論の間での交流可能性を高める基盤が必要であることも指摘されており…。驚くなかれ、理論的多様性を持つ社会学の共通基盤となり得る学問が「生物学」なのだとさ。もしも社会学者が生物学フォビアを回避することができたらという条件付きで。
 専門家には当たり前の話なのだろうけれど、勉強になったのは、道徳判断と行為のつながりの話。規範について、行為の決定において意図されててもされなくても良い「評価的原理」と、行為の決定において意図されている必要のある「行為指導的規則」の2種類に分けられるという話(p.261-3)にはなるほどと思った。このような形で規範を設定すれば、行為のつながりを説明できない規範の存在もとらえることができる。もう一つ、消化しきれなかったけど勉強になったのは、道徳と行為のつながりに関して、行為の指令的側面が道徳語に本質的に含まれているとする内在主義と、指令的側面は偶然的に道徳語に付随する外在主義という立場があること。後者の外在主義の場合、「道徳的事実」という自然的な性質の実在を設定するという話は、ほー、と思った(p.265-)。また、道徳の指令的側面についての外在主義者が抱える困難としては、たとえば脳死をめぐる論争など、新たな道徳的な問題に対して、動機付けを得るための道徳的な行為指針創出の営みを説明しがたいそうである(p.275)。
 小ネタ的に苦笑したのは、ディビッド・ハルによる研究のサーベイの中で登場した説明で、指導教官が大学院生の研究成果を横取りしないのであるなら、それは、横取りが、知的後継者の生存可能性(指導している院生が学会で生き延びる可能性)を下げてしまうことで、後続する世代の科学者たちの仕事の中において自分の貢献が評価される可能性を低めてしまうから、というもの。シニカルだなぁ。

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それはビューティフル・ドリーマー
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戸田山和久 2002年 『哲学教科書シリーズ 知識の哲学』産業図書株式会社

「世界はどのようにできているのか?」という問いへの努力を、哲学ではどうやら、「形而上学」と呼ぶらしい。ただ、哲学が扱うのは、こうした「形而上学」的な問いに収まらない。哲学が取り組むもう一つの重要な問いとして、「『世界がどのようにできているのか』、といった事柄を、私たちはどうして、そして、どのように知ることができるのか」というものがあり、これこそが、本書が取り扱う「認識論」と呼ばれる分野なのである。

ところで、私たちが何らかの事柄を「知っている」とはいったいどのような状態を指していることなのだろうか。こうした「知識」の定義に対する古典的な回答の一つが、知っている理由が説明されうる(「知識とは正当化された信念である」)ということにある…らしい。ところがこの「知識」の定義が実は、さまざまな困難をはらんだものであり、本書は、この古典的な知識の定義が持つ困難への解決を出発点に、懐疑主義をぶった切り、返す刀で、個人が真理に到達することに内在的な価値があることを前提とした古典的認識論の道徳主義的な側面をあぶり出す。最終的には、知識は個人の内面にあるものというよりは、社会の中で共有された存在という理解の「認識論の社会化」を目指すべきという主張に至る、著者の構成力、そして文章力は鮮やか!

なんだけど、この本マジ難しい…。
たとえば、知識の古典的な定義に対して、反例を提示することで異議を唱える「ゲティア問題」に対して、外在的な情報知識理論によるドレツキの解決の方法。うーん具体的に分かりやすく書いてあるのだけれど…。でもその事例が、うる星やつらの映画『ビューティフル・ドリーマー』にインスパイアされているのは分かったよ!!

各章の最後に、それぞれの章を復習する問題が置かれているのだが、これもクソ難しい。たとえば「1+1=2といった数学的信念が不可謬(間違いない、ということ)であると言われるのはどうしてだろうか。考えてみよう」(p.43)、と言われても…。おそらくさっきまで読んでいたところで説明してくれているはずなのに、考えてみる気力が全く起きない私には、哲学的な才能がないんだろうなぁ。問いに取り組む喜びではなく、答えを知れた喜びに快を感じるんだよ、私は。

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泣かせるじゃないか。
池田輝正・戸田山和久・近田政博・中井俊樹 2001年『成長するティップス先生――授業デザインのための秘訣集(高等教育シリーズ)』玉川大学出版部 1,470円(税込)
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冒頭に、ティップス先生の授業日誌が置かれているが、これがまさに若手の大学教員の「あるあるネタ」。ちなみに本書はweb版でも見られる。たとえば授業日誌はここから。

「11月1日 ティップス先生始動す の巻」

講義がレジュメの朗読になってしまったり、ゼミの学生達の沈黙に困惑したり、講義直前に印刷室で冷や汗を流している大学教員は、ティップス先生だけではないのでは?本書はこうした大学教員が直面しがちな困難に対して、一定の処方箋を提示してくれる「臨床教育学的」な書である(笑)。

私が勉強不足なだけで類書はたくさんあるのだろうが、得られることがいろいろあった。たとえば、15回の講義全体で学生に何を理解させるのか、というコースデザインと、1回の授業の中で何を理解させるのかという、授業デザインとを分けて考えなければならないという発想は、何となくは行っていても明示的には自覚していなかった。提出物の学生の遅延について、複数の提出物全体で3日間の猶予日数を設けて学生に周知しておくという方法は、なるほど、と思った。チェックが面倒そうだけれど。

アメリカの大学の障がい者の学生支援に関するティーチング・ティップスでは、学習障害の学生への対応も重視されているという話は、興味深い。また学生の重すぎる相談を専門家につなげるためにも、大学教員は所属している大学の「学生相談室」の仕組みや利用方法を理解しておく必要があるという話も、すごい説得力。

個人的には研究と教育をいかに結びつけるかを教えて欲しいところだけれど、授業がうまくいかないのはそれ以前の努力不足にある、ということがよく分かった。現在の日本の大学教員には強く教育力が求められているのである。

しかし本書のような、個々の大学教員自身の努力によって授業が改善されることで、大学全体が良くなるのだというかけ声は、現在の日本の大学教員たちが置かれた過酷な状況、そして大学教育の制度的な問題から目をそらせることになるかもしれない…というのは、私ではなく本書の「あとがき」における戸田山さんの言葉。泣かせるじゃないか。

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一読の価値あり!!
戸田山和久 2002年『論文の教室――レポートから卒論まで(NHKブックス 954)』日本放送出版協会、1,176円(税込)
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「作文ヘタ夫」という学生に、著者が対談形式で論文の書き方をたたき込むというストーリー。なかなか良くできている。

たとえば、論文の「アウトライン」作成には、単語で構成された「項目アウトライン」から、短い文で構成された「文アウトライン」に進むという方法があるという話は勉強になった。

また、論文執筆に必要不可欠な問題設定のために、テーマにいろいろな種類の問い(「いかにして?:経緯」、「なぜ?:因果」、「どうすべきか?:当為」、「どんな?様態」といった問い)を手当たり次第にぶつていくという、「ビリヤード法」という提案はなるほどと思った。

それにしても感心するのが、著者の文体模写で、ヘタ夫の最初のレポートのヒドさは驚嘆するし、司馬遼太郎文体でパラグラフライティングを紹介する箇所には大笑い。

個人的に最も有益だったのは、Endnoteという文献入力支援ソフトの存在を知れたこと。本書には出てこないけど、これを手がかりにref for windowsというフリーソフトを見つけられた。

この本を学生が読んでからレポートを書いてくれたら、大学の教員は採点が少しは楽しくなるのだろう。でも学生さんじゃなくても読む価値はあり!!

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理屈っぽい恋人対策に
伊勢田哲治 2003年『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会、2,940円(税込)

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「血液型性格診断」のような話が大好きなあなたが、「そんなのが説得力を持つのは、誰にでも当てはまることしか言っていないからさ」などと言うような理屈っぽい恋人に辟易としているなら、この本を読むといい。一泡吹かせられるかもしれないからだ。(ちなみに、あなたの恋人の説明は、心理学では「バーナム効果」と呼ばれている。)

とは言っても、本書は「血液型性格診断」の正しさを証明してくれない。そうではなく本書は「血液型性格診断」のような、いわゆる「疑似科学」(と言われても我慢して欲しい。著者の言では「疑似」という言葉に否定的な意味合いはない)と「科学」の間に存在する境界が、いったいどのような原則によって引かれるのかを、説明しようとするのである。つまり理屈っぽい恋人を打ち負かすには、何も「血液型性格診断」の正しさを証明しなくとも、否定してくる輩(「つまり疑似科学」と「科学」の線引きの議論法)を叩くという道もあることに気づかせてくれる。(それから、「血液型性格診断」は本書の主要な事例になっていないのであしからず。)

1章では「創造科学」(聖書に書かれている天地創造の物語を科学的にサポートしようとする立場)と「進化論」の線引きを巡ってポパーの「反証主義」が、2章では「占星術」と「天文学」とを巡ってクーンの「パラダイム」論が、3章では「超能力」の実在を巡る議論を通して、科学における実在論論争が、4章では「代替医療」の社会政策的な位置づけをめぐって科学的合理性への相対主義的立場が、5章では、「マーフィーの法則」(「パンがバターを塗った面を下にして落ちる確率は、カーペットの値段と正比例する」といった例のヤツ。)などを人はなぜ信じてしまうのかについて確率論を紹介しながら、検討される。

…のだが、はっきり言って冗長な記述が多い気もするし、使えるのかと思って読んできた科学の線引き基準が、すぐに「実はここで弱い」、とひっくりかえされてしまう連続で、読むのに忍耐が必要だった。ラストがベイズ理論で終わるのだが、ここはビヨンド・マイ・アンダースタンディング。それでも、戸田山が『科学哲学の冒険』の次に読むべき本と勧めているので我慢していると、学ぶところはあるもので。

たとえば、アメリカでは創造科学が州憲法レベルでは否定されているものの、地方の教育委員会レベルではいまだに生き残っているという話には興味を引かれたし、ダーウィンの進化論は、「獲得形質の遺伝」(キリンの首が長いのは、高い木の葉を食べるための先祖の努力が、子世代に受け継がれたから、といった説明)の目的論的な思考を、「自然選択説」(遺伝的な変異によって首が長くなったキリンは環境への適応性が高く、結果として生存競争に勝ち残ったのが首の長いキリンだった)という機械論的な発想を提示することで否定したものであったことを学べたのは、勉強になった(常識?)。

ただこの本で得られた議論の立て方を使って恋人を論破して、二人の中がこじれてしまったらどうしよう。そのときはやっぱり血液型占いにお願いしてみますか。

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ハート・ウォーミングな結末
4140910224科学哲学の冒険―サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)
戸田山 和久
日本放送出版協会 2005-01

by G-Tools



久しぶりに食事をする間も惜しみながらの読書という、幸せな時を与えてくれる本だった。

内井惣七 著 1995年『科学哲学入門――科学の方法・科学の目的 』世界思想社、が、自分にはちょっとレベルが高くて挫折しかけている時に(情けない…)、手にとったのが本書。科学哲学や科学社会学などに関心を持つ人にとっては絶好の入門書だろう。ちなみに著者の読書案内によれば、内井の本は、次の次に読むべき本だそうな。

本書では、理系のリカと文系のテツオという、ありえないほどの理解力を持った学生二人と、センセイとが対談を進めることで、科学哲学の議論をわかりやすく解説してくれる。

知らないことだらけだったけれど、一番勉強になったのは、科学に対する強い社会構成主義(地球上でリンゴが地面に落ちることを説明してくれる「万有引力の法則」も、科学者たちの言説活動以前には存在しない社会的に構成されたモノナノサ!といった主張)が、哲学的な伝統の中では「観念論」に位置づけられるということ(常識か)。テツオが社会構成主義者を演じてくれているのだけど、リカがこの立場を一蹴する。「そんなヤツには、ビルの20階から飛び降りてみろ、って言ってやりたいわ」、と。社会構成主義にシンパシーを持つ自分としてはちょっと痛い。

実際のところ著者の仮想敵は「観念論(社会構成主義)」ではなく、「反実在論」である。著者曰く、「反実在論」とは、観察可能な対象の実在をも否定する「観念論(社会構成主義)」とは違い、観察不可能な対象(たとえば電子)についての実在を否定する立場である。分析的には、「反実在論」には観察不可能な対象「自体」の実在は認めるけれど、その「理論」の実在を否定する、限定的な反実在論が存在するらしく、これが難敵らしい。そして、この限定的な反実在論の立場と戦うには、科学理論についての意味論的な立場をとることが有効らしいのだが…。残念ながら、このあたりで私の理解能力を超えてしまった。

それでも読了できたのは、本書をすでに読んでいた友人に、「ハート・ウォーミングな結末が待っているよ」、と言われていたから。彼の言に違わず、最後の数ページには著者の「科学哲学」に対する熱い想いが込められていて、最初から読んで来たあなたならきっと涙ぐんでしまうはず。たぶんこの部分は最初に書かれていて、本書執筆の間に何度も推敲されているのだろう。

もちろん本書のような教科書で分かった気にならずに、科学哲学の原典に当たらなければならない…のだが。でもいいじゃないか、楽しければ。
まずはここから。

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